「ホレる中華」の根底には、広東省梅州にある老家の、薪がくべられた竈(かまど)の風景があります。
それはNoir(ノア)が初めて目にした人情の機微でした。旧正月の古い台所で立ち昇る煙と、忙しく立ち働く大人たち。一方、味の記憶は深センにあります。多忙なビジネスの傍ら、父が家で手際よく作ってくれた実直な家常菜。無駄のないそのリズムは、暮らしが研ぎ澄ませた熟練の証であり、言葉には出さない家族への愛情そのものでした。
家を離れて十余年。ロンドン、そして東京へ。異郷の台所で独り、故郷を想う時間を変えたのは、夫のSimon(サイモン)でした。ウイスキーのスペシャリストとして味覚を磨いてきた彼は、アジア各地を巡る中でその文化に深く共鳴していました。Noirの故郷への想いを知った彼は、未経験だった中華鍋を握り始めました。
門外漢から真髄を紐解いていく長い道のり。今では「先祖が手解きをしているのでは」と笑い合うほど、彼の料理には家族の魂が宿っています。厳しい父がSimonの料理を口にして微笑んだとき、食は言葉を超え、確かな絆となりました。
東京での暮らしが十年目を迎え、父が語る秘伝をSimonが形にする、新しい継承が始まりました。日常の中に流れる温かな繋がりの記録。山海を越えて、あの温もりと食卓で再会できることを願っています。